広島地方裁判所 平成4年(ワ)1086号 判決 1997年11月19日
原告
甲野太郎
外一名
右両名訴訟代理人弁護士
小笠豊
被告
広島県厚生農業協同組合連合会
右代表者代表理事
原田睦民
右訴訟代理人弁護士
新谷昭治
同
大元孝次
主文
一 被告は、原告ら各自に対し、それぞれ金一一七七万〇六五〇円及びこれに対する平成三年三月一八日から各支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
二 原告らのその余の各請求をいずれも棄却する。
三 訴訟費用は、これを五分し、その三を被告の負担とし、その余を原告らの負担とする。
四 この判決は、第一項に限り、仮に執行することができる。
事実及び理由
第一 請求
被告は、原告ら各自に対し、それぞれ金一八五〇万円及びこれに対する平成三年三月一八日から各支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
第二 事案の概要
一 事案の要旨
本件は、甲野一郎(以下「一郎」という。)が小脳出血の治療のために脳内血腫吸引手術を受けた後に死亡したことについて、その子である原告らが、右手術及び術後治療が実施された病院を開設する被告に対し、不法行為(民法七一五条)又は医療契約上の債務不履行(同法四一五条)に基づき、損害賠償を請求する(附帯請求として、一郎が死亡した日である平成三年三月一八日からの民法所定の年五分の割合による遅延損害金を請求する。)事案である。
二 争いのない事実等
1 当事者
(一) 原告らは、いずれも一郎(大正一五年八月二八日生)の子である。
(二) 被告は、医療及び保健に関する事業等を目的とし、農業協同組合法に基づいて組織された農業協同組合連合会であり、尾道総合病院(以下「被告病院」という。)を開設している。
2 一郎は、平成三年三月二日、親戚の法事出席中に気分が悪くなり、歩行障害が出現したため、近所の開業医で診察を受けた後、被告病院において受診して入院し、頭部CT検査等の結果、右小脳半球に3.8センチメートル×2.5センチメートル×2センチメートルの血腫の存在が確認され、その吸引除去手術を受けることとなった。
3 事実経過の概要
(以下、平成三年における月日の表記においては、年を省略することがある。)
(一) 被告病院脳神経外科部長渡邊憲治(以下「渡邊」という。)医師及び同科に勤務する西徹(以下「西」という。)医師は、いずれも被告が雇用する医師であったが、右両医師が一郎の治療に当たることとなり、一郎に対し、諸検査の後、三月六日、右両医師により、CT手術装置を用いて、右後頭下に穿頭し、右小脳半球の血腫を吸引する手術(CT定位脳内血腫吸引術。以下「本件手術」という。)が施行された。
(二) 一郎は、三月一一日から呼吸不全を呈するようになり、その後、播種性血管内凝固症候群(DIC)の状態となり、同月一八日に死亡したが、死亡後の剖検の結果、偽膜性腸炎が認められた。
4 原告らに対し、一郎の死亡に関し、医薬品副作用被害救済・研究振興基金法(以下「医薬品基金法」という。)に基づく法人である医薬品副作用被害救済・研究振興基金(以下「医薬品基金」という。)から、同法に基づき、遺族一時給付金六一三万八〇〇〇円及び葬祭料一三万円の合計六二六万八〇〇〇円が支払われ、原告らは、それぞれその二分の一である三一三万四〇〇〇円ずつを取得した。
三 争点
1 一郎が死亡に至った機序及び死因について
(一) 原告らの主張
一郎は、本件手術後に、クラフォラン及びペントシリンを中心として、この他にビクシリン、モダシン、ミノマイシン等の抗菌薬(抗生物質)を投与されたことによって、偽膜性腸炎を発症し、その症状が増悪し、これが原因となって死亡したものである。
(二) 被告の主張
右(一)は否認する。
一郎の直接の死因は腎不全であるが、一郎は、三月二日の初診時において、高血圧性腎症、糖尿性腎症、感染によるショック等の基礎疾患を有し、これにより腎不全が進行し、死亡に至ったものである。
なお、剖検所見によれば、一部にはエンドトキシン血症があったと思われるが、偽膜性腸炎の起炎菌となるクロストリディウム・ディフィシルの産生する毒素はエンテロトキシン及びサイトトキシンであるから、右エンドトキシン血症は偽膜性腸炎に起因するものとは考え難い。むしろ、エンドトキシンを産生するグラム陰性桿菌が腸管壁を透過し、糖尿病、肝障害等の基礎疾患により免疫機能が低下していたため、敗血症を発症し、多臓器不全に至ったものと考えられる。
2 一郎の担当医師が偽膜性腸炎の疑いを持たず、鑑別診断に必要な諸検査を実施しなかったため、偽膜性腸炎に対する適切な治療を行わなかった過失の有無について
(一) 原告らの主張
渡邊医師及び西医師は、一郎に対し、三月六日からクラフォラン及びペントシリン投与を開始したが、一郎は、同月七日には39.5℃、同月一二日以降も38.5℃から39℃の高熱があり、同月一一日には白血球数が四万二三〇〇(血液一マイクロリットル中。以下同じ。)と異常な高値を示し、CRPも3.9(血清一デシリットル中の量(ミリグラム)。単位について以下同じ。)と高値であり、しかも同月八日及び一〇日以降はひどい下痢が続いていたことに照らせば、同月一〇日から一三日ころまでには抗菌薬に起因する偽膜性腸炎を疑い、鑑別診断のための諸検査を行い、確定診断ができなくとも、原因と疑われる抗菌薬の投与を中止し、偽膜性腸炎の治療に効果がある抗菌薬バンコマイシンを投与すべきであった。
しかるに、渡邊医師及び西医師は、同月一〇日から一三日ころまでの間、偽膜性腸炎の発生の疑いを抱かず、鑑別診断のための諸検査を実施することもなく、漫然とクラフォラン及びペントシリンの投与を継続し、同月一三日からはこれに代えてビクシリン、モダシン及びミノマイシンの投与を続けた過失がある。
また、止瀉剤として、偽膜性腸炎の患者には投与が禁忌とされているロペミンが投与されているが、右両医師は、偽膜性腸炎の発生が疑われた時点においてこれを中止すべきであったにもかかわらず、投与を継続した過失がある。
そして、一郎は、右の過失により、偽膜性腸炎が急激に増悪し、これが原因となって死亡に至ったものである。
したがって、被告には、渡邊医師及び西医師の使用者としての不法行為に基づく損害賠償責任(民法七一五条)又は一郎との診療契約上の債務の不履行に基づく損害賠償責任(同法四一五条)がある。
(二) 被告の主張
被告病院においては、本件手術後一郎が死亡に至るまで、偽膜性腸炎の発生を疑っていなかったが、次のとおり、一郎の症状の経過に照らせば、偽膜性腸炎を疑うことは困難であり、担当医師である渡邊医師及び西医師に過失があったとはいえない。
(1) 偽膜性腸炎の診断基準について
偽膜性腸炎の主要な臨床症状は、腹痛、頻回の下痢、発熱、腸管麻痺による腹部膨満などであり、検査所見としては、白血球数増加、血清電解質失調(特にカリウムの喪失による低カリウム血症)、低蛋白血症などがあり、これらから偽膜性腸炎が疑われれば、その原因となり得る細菌であるクロストリディウム・ディフィシルの検出検査を行い、大腸内視鏡検査により偽膜を確認することにより確定診断を付することになる。
(2) 一郎の臨床症状の推移からみた偽膜性腸炎の診断可能性
① 下痢の頻度については、一般に、偽膜性腸炎においては、一日三〇回にも及ぶことがあるとされ、最低でも一日五回であるといわれているところ、一郎に見られた下痢の回数は、本件手術後中一日をおいた三月八日に一回あったが、同月九日には排便がなく、翌一〇日から一三日にかけて一日各三回ずつ、一三日に二回の下痢があったにすぎず、回数的にみて頻回とまではいえない。
② 三月一〇日の下痢については、三月二日以降排便がなかったことによる腐敗性下痢である可能性や、一郎に処方されたインダシン坐薬(解熱剤)の影響が考えられた一方、腹痛や腹部膨満はなく、また、三月七日深夜には39.5℃あった熱が、同月一〇日には36.3℃ないし36.5℃と平熱に復していたのであるから、この時点で偽膜性腸炎を疑うことはできなかった。
③ 三月一一日には、前記のとおり三回の下痢があり、血液等の検査所見は、同月七日には、白血球数一万五九〇〇、好中球割合八八パーセント、リンパ球割合一二パーセントであり、同月九日には、白血球数一万五〇〇〇、好中球割合八八パーセント、リンパ球割合一二パーセントであったが、CRPは0.5と正常値となっていたものが、同月一一日になって、白血球数四万二三〇〇と突然の異常増加を示し、好中球割合九三パーセント、リンパ球割合六パーセントと核の左方移動が認められ、CRPも3.9と急上昇し、炎症所見が著明となった。このような症状からは、肺炎及び敗血症が疑われたものの、熱は平熱であって、腹痛や腹部膨満はなく、血中のカリウム値は5.7と正常値を超えて上昇していたことからみて、偽膜性腸炎を疑うことは困難であった。
④ 三月一二日には、三回の下痢があったが、腹部膨満はなく、腸炎の症状としては軽微であり、他方、血中カリウム値は5.7と正常値を上回り、血液細菌培養検査をしたが結果は陰性であった。
⑤ 三月一三日には、二回の下痢があったが、やはり腹部膨満はなく、他方、敗血症によるショック症状が出現し、気管挿管及び人工呼吸が施され、翌一四日には、ショック症状を呈し、播種性血管内凝固、腎不全、多臓器不全を生じており、このような重篤な病状下においては、大腸内視鏡検査により偽膜性腸炎を診断することはできなかった。また、この段階で偽膜性腸炎の確定診断がなし得たとしても、一郎の一般状態を急速に改善できる治療措置は存在しなかったものである。
(3) 以上によれば、被告病院においては、三月一〇日から一三日ころまでに偽膜性腸炎の発生を診断することは不可能であった。また、仮に同月一三日又は一四日において偽膜性腸炎の診断が可能であったとしても、この時点においては、一郎の一般状態を急速に改善し得る治療措置は存在しなかったのであるから、同日において偽膜性腸炎の診断をしなかったことと一郎の死亡との間には因果関係がない。
また、ロペミンの投与についても、右のとおり偽膜性腸炎の診断が不可能であった以上、これを継続したことが過失となるものではなく、腸蠕動運動促進作用を有する乳酸菌製剤であるラックBが併行投与されていることや、ロペミンの投与量は多量ではなく、投与期間も短期間であったことからみて、ロペミンの投与が偽膜性腸炎の症状を増悪させたとは考え難いから、これと一郎の死亡との間には因果関係がない。
3 手術適応がないのに本件手術を実施した過失の有無について
(一) 原告の主張
一郎の小脳出血は、保存的に様子を見ていても血腫の自然吸収が期待できる症状であり、本件手術の適応がなかったものであるが、渡邊医師及び西医師には、手術適応がなかったにもかかわらず本件手術を実施した過失がある。
(二) 被告らの主張
右(一)は否認する。
高血圧性小脳出血の手術適応は、一般的には血腫の最大径が三センチメートル以上とされており、脳槽の圧迫があればなおさら適応が認められるものであるところ、一郎に生じていた小脳血腫は、3.8センチメートル×2.5センチメートル×2.0センチメートルの約10ミリリットルのものであり、小脳の後頭蓋窩との関係において中等度のものであったが、一郎は当時六四歳で、著明な高血圧症であり、頭部CT所見では小脳の後頭蓋窩のスペースが狭くなっていることが認められ、降圧剤及び脳圧下降剤を投与して保存的加療を行ううち、軽い意識障害及び瞳孔不同という脳幹症状が発現し、脳ヘルニアへの急速な移行が懸念されたことに照らせば、一郎には本件手術の適応があったというべきである。
4 本件手術において脳組織を損傷した過失の有無について
(一) 原告の主張
本件手術において、渡邊医師及び西医師には、不適切な処置により一郎の脳組織を損傷した過失があり、これによって生じた脳損傷のため、一郎の意識が清明を欠く状態となり、生命予後に悪影響を及ぼした。
(二) 被告らの主張
右(一)は否認する。
5 損害について
(一) 原告の主張
(1) 一郎の死亡により生じた損害は合計三七〇〇万円であり、その内訳は次のとおりである。
① 逸失利益 一二〇〇万円
一郎は、死亡当時六五歳であり、その後六年間は稼働可能であったものであるから、同年齢男子の平均年収三三八万円の六年分の収入を得ることができたものであり、新ホフマン係数により年五分の割合による中間利息を控除し(六年間に対応する同係数は5.134)、生活費の割合を三〇パーセントとみてこれを控除した金額が逸失利益となるが、その金額は一二〇〇万円を下回らない。
② 慰謝料
二〇〇〇万円(原告ら各一〇〇〇万円)
③ 墳墓・葬祭費用
一〇〇万円(原告ら各五〇万円)
④ 弁護士費用
四〇〇万円(原告ら各二〇〇万円)
(2) 原告らは、右(1)①に係る一郎の被告に対する損害賠償債権を各二分の一の割合により相続し、また、原告らには、それぞれ右(1)②ないし④の損害が生じたのであるから、原告ら各自は、被告に対し、損害賠償として、それぞれ一八五〇万円及びこれに対する一郎の死亡の日である平成三年三月一八日から各支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。
(二) 被告らの主張
(1) 右(一)(1)はいずれも否認する。
(2) 損益相殺
原告らが、一郎の死亡に関し、医薬品基金から支給を受けた遺族一時金及び葬祭料合計六二六万八〇〇〇円は、被告が賠償すべき損害から控除されるべきである。
(三) 被告らの主張に対する認否
右(二)(2)は認める。
第三 争点に対する判断
一 事実経過
証拠(<書証番号略>、証人渡邊)に前記第二の二の事実を総合すれば、次の事実を認めることができ、この認定を覆すに足りる証拠はない。
1 被告病院への入院までの経過
一郎は、平成三年三月二日午前一一時ころ、法事の最中に眩暈と嘔吐をきたして歩行不能となり、松本胃腸内科病院において受診したところ、意識はあるが言語障害があり、高血圧(収縮期二四二ミリメートル水銀柱、拡張期八二ミリメートル水銀柱)であったため、トランキライザーと降圧剤の投与を受けた後、同日午後一時二〇分、同病院から、被告病院脳神経外科に搬送され、入院した。
2 入院から本件手術までの経過
(一) 入院時には、一郎は、著明な高血圧(収縮期二〇三ミリメートル水銀柱、拡張期九〇ミリメートル水銀柱)であり、意識はほぼ清明であったが、構語障害があり、瞳孔不同(右三ミリメートル、左二ミリメートル)が認められ、四肢麻痺はないものの歩行障害があり、脳CT検査の結果、右小脳半球に3.8センチメートル×2.5センチメートル×2.0センチメートルの血腫が認められたほか、後頭蓋窩の空間の狭隘化を示す所見である第四脳室の変形と脳槽の描出不良が認められた。
また、37.5℃の発熱があり、血液、尿、血清の生化学検査では、白血球数は一万五三〇〇(正常範囲は四〇〇〇から八〇〇〇)、CRPは1.5(正常範囲は0.5以下)と高値を示し、尿蛋白が二プラス、尿糖が三プラス、尿潜血が二プラス、血糖値が二三二ミリグラム(血液一デシリットル中)(正常範囲は七〇から一〇九ミリグラム)、ヘモグロビンAlcが6.6パーセント(正常範囲は4.4パーセントから6.3パーセント)であり、肝酵素関係数値の上昇がみられた。
(二) 主治医の西医師とともに一郎の治療に従事することとなった渡邊医師は、右の所見を基に、一郎には高血圧性小脳内出血があり、全身的には、糖尿病、腎障害及び軽度の肝障害があると診断し、保存的治療を行うこととして、高血圧のコントロールのための降圧剤と、脳浮腫及び脳圧亢進の防止のための脳圧下降剤を継続的に投与し、三月五日に至ったが、一郎は、開眼していて応答はするがぼんやりしている意識状態(日本コーマスケール(JCS)一)で、右上肢の運動失調があり、瞳孔不同が持続し、対光反射も右側が敏から鈍になるなどしたことから、本件手術を施行することを決定した。
3 本件手術及びその直後の状況
三月六日午後三時から、渡邊医師及び西医師を術者として本件手術が施行された。まず、一郎に対し、病棟において局所麻酔を施し、頭部リングを頭蓋ピン四本で固定した上、CT検査室に搬送し、CTにより目標点を血腫のほぼ中央に定めた後、手術室に搬送した。手術室においては、右後頭下の頭蓋に電気ドリルで穴を穿ち、座標軸装置により目標点に座標を合わせて径三ミリメートルの針(プローベ)を挿入して、軽く陰圧をかけて血腫を吸引し、数ミリリットルの生理食塩水を注入した後に再び吸引する操作を繰り返し、合計約一〇ミリリットルの血腫を吸引したが、一郎が突然不穏状態となり暴れ出したため操作を中止してプローベを抜去し、第四脳室にドレーンチューブを留置して縫合した。
本件手術終了後、CT撮影が行われ、一郎は、同日午後五時三〇分に帰室した。一郎の意識レベルは刺激で開眼する状態(JCS二〇)で、不穏状態が続いたが、午後一一時ころには意識がかなりはっきりし(JCS二)、不穏状態は消失した。なお、午後九時二〇分ころ、脳内に留置したドレーンから約三ミリリットルの滲出液が吸引された。
同日、渡邊医師は、術後感染防止のため、一郎に対し、抗菌薬であるクラフォランを一グラムずつ三回、同ペントシリンを一グラムずつ二回それぞれ静注投与し、以後クラフォラン及びペントシリンをそれぞれ毎日朝夕二回、各一グラムずつ静注する定期投与を開始した。
4 三月七日から死亡までの臨床症状、検査所見及び投薬等の状況の推移
(一) 三月七日
高血圧(収縮期で一七〇ないし二一〇ミリメートル水銀柱程度)が持続するので、降圧剤の投与が継続された。また、39.5℃の発熱があり、解熱のためにインダシン(坐薬)が合計三回投与され、メチロンが二回筋注された。白血球数は一万五九〇〇、好中球割合は八八パーセント、リンパ球割合は一二パーセントであった。
いったん収まった不穏状態が再び出現し、うわごとを言うような状態となり、体動が激しいので、セルシンを静注するとともに、グラマリール内服薬(せん妄を抑制する薬剤)の定期投与を開始した。なお、脳室に留置したドレーンから約四ミリリットルの血液が吸引され、その後に右ドレーンが抜去されたが、CT検査の結果、本件手術部位には出血がないことが確認された。
(二) 三月八日
午後二時三〇分ころに、焦げ茶色の下痢があった。体温は三六℃から三七℃台であったが、朝方にインダシンが投与された。また、三月七日の発熱から髄液の感染が疑われたため、腰推穿刺が施行されたが、髄膜炎の所見は認められず、髄液細菌培養の結果も陰性であった。
前日に引き続き深夜から興奮状態があり、グラマリールの内服で睡眠したが、再び興奮状態となり、二回にわたりセルシンが一〇グラムずつ筋注された。
(三) 三月九日
白血球数は一万五〇〇〇であるが、CRPは0.5を下回り正常値となった。体温は、午前五時ころ三八℃台の発熱がありインダシンが投与されたほかは、概ね三七℃台であった。また、高血圧のコントロールのための投薬も継続された。
前日からの夜間、不眠で体動が激しかったため、明け方にかけてセルシンが一〇グラムずつ二回投与(筋注及び静注)された。
(四) 三月一〇日
午後零時三〇分ころ、濃褐色の泥状の排便が中等量あり、その後、午後九時及び九時二〇分ころにそれぞれ下痢があり、ロペミン(止瀉剤)一ミリグラムが経口投与されたが、さらに、午後一〇時ころ及び一一時ころにそれぞれ下痢があった。なお、さしたる発熱はなかった。
血圧は収縮時二〇〇ミリメートル水銀柱にまで上昇することがあり、そのコントロールのための投薬が継続された。意識状態は、名前は言えるが見当識障害があり(JCS三)、午後一時ころには、体動が激しくベッドの柵を叩いたり点滴を引き抜こうとしたりしたので、セルシン一〇グラムが静注されたが、夜にはおとなしくなった。
(五) 三月一一日
午前三時三〇分ころに多量の下痢があり、午前七時三〇分から八時ころにも二回の下痢(二回目は少量)があり、ロペミンが二回各一ミリグラムずつ、乳酸菌製剤であるラックB(止瀉剤)が三回各一グラムずつ経口投与されたが、さしたる発熱はなかった。
白血球数は四万二三〇〇と急激に増加し、CRPも3.9と急激な上昇を示し、好中球割合は九三パーセント、リンパ球割合は六パーセントと核の左方移動が認められた。なお、血清中のカリウム値は5.7(正常範囲は3.5から5.0)であった。
渡邊医師は、右の所見等から敗血症及び肺炎を疑い、免疫グロブリン五グラムを二日間点滴静注することとし、胸部レントゲン線写真を撮影するとともに、敗血症に係る菌の同定のために動脈血細菌培養を行ったが、レントゲン線写真では異常が認められず、翌日に得られた培養の結果も陰性であった。
また、高血圧が持続し、循環器内科医の指示により、セロケン(降圧剤)等が経口投与された。
(六) 三月一二日
午前一一時ころに二回の下痢(二回目は黄色の水様)が、午後九時ころにも茶色の水様の下痢がそれぞれあり、ロペミンが二回各一ミリグラムずつ、ラックBが三回各一グラムずつ経口投与された。
白血球数は四万八一〇〇、好中球割合は95.3パーセント、血清中のカリウム値は5.7であった。
意識は、呼び掛けで開眼する程度(JCS一〇)であったが、午前九時ころ、チェーンストークス型呼吸が発現して呼吸不全となり、腹部から大腿部及び手指にチアノーゼが認められたので、経鼻エアウェイが挿入されて酸素吸入が行われた。体温は、前日に引き続く深夜から三七℃台の発熱がみられ、午前八時ころインダシンが投与されたが、午後一一時ころには、38.5℃を上回るまで体温が上昇してきたため、再度インダシンが投与された。他方、血圧は、一八〇ミリメートル水銀柱から六〇ミリメートル水銀柱の間でほぼ安定していたが、夜から深夜にかけて低下気味となり、降圧剤の投与が中止された。
(七) 三月一三日
(1) 午前零時三〇分ころ、血圧が収縮時九〇ミリメートル水銀柱にまで下降してきたため、昇圧剤としてイノバン及びドブトレックスの持続点滴が開始され、いったんは約一二〇ミリメートル水銀柱まで回復したが、午前七時一五分ころ、呼吸不全(チェーンストークス型呼吸)が発現したため、一時人工呼吸器が接続され、血圧も一時的に六〇ミリメートル水銀柱にまで低下し、その後再び約一二〇ミリメートル水銀柱にまで回復した。この間、副腎皮質ホルモンが静注され、点滴に低分子デキストランが追加された。また、体温は、深夜から午前一〇時ころまでは三九℃台の発熱が続き、その後、午後二時ころまでは三八℃台で推移し、この間、インダシンの投与やアルコール清拭等により冷却が図られた。他方、胃に挿入されたチューブから胆汁色の液体が排出されたことから、消化管出血が疑われ、血清化学検査所見では、腎機能障害の様相を呈してきた。
渡邊医師は、播種性血管内凝固が発生したものと判断して、FOYの点滴を開始したが、午後九時には、さらに呼吸不全が発現して人工呼吸器が接続され、このころには、腎不全、呼吸及び循環不全の状況からみて、生命の維持が危ぶまれる状態であった。
(2) 渡邊医師は、クラフォラン及びペントシリンの定期投与を、午前中各一グラムを静注したところで、効果がないと判断して中止し、これらに代えて、抗菌薬としてビクシリン、モダシン及びミノマイシンを定期投与することとし、ビクシリン一グラム及びモダシン二グラムを静注し、ミノマイシン一〇〇ミリグラムを点滴静注した(以後、ビクシリン及びモダシンについては、同月一七日まで一日二回、一回につき右同量ずつが静注され、ミノマイシンについては、同月一四日に二回各一〇〇ミリグラムずつが点滴静注された。)。
午後二時ころと午後八時ころに少量の下痢があり、ロペミンが二回各一ミリグラムずつ、ラックBが三回一グラムずつ経口投与された。
三回施行された血液検査の結果では、白血球数は一万七九〇〇、三万五五〇〇、一万八八〇〇であり、また、血清中のカリウム値は6.2であった。
(八) 三月一四日から同月一八日まで
一郎は、呼吸を人工呼吸器により管理され、血圧を昇圧剤により維持されている状態が続き、播種性血管内凝固によるショック状態の改善がみられたものの、尿量が減少して腎不全が進行し、感染や血圧低下等の全身状態から人工透析も施行できないまま、三月一七日から一八日にかけての深夜、血圧の著明な低下を来たし、三月一八日午前零時五一分に死亡した。
二 一郎が死亡に至った機序及び死因(争点1)について
1 一郎の剖検の結果では、空腸から直腸にかけて、著しい偽膜性大腸炎の所見が得られ、また、エンドトキシン血症の関与を示唆する肝臓小葉中心性新鮮壊死、著しい急性膵炎、下部尿管ネフローシス(ショック腎)が認められたことによれば、一郎は、偽膜性腸炎により腸管の防御機能が障害され、細菌が血中に侵入し、その産生するエンドトキシンによる敗血症が惹起され、ショック状態(エンドトキシンショック)となって急性循環不全が引き起こされた結果死亡に至ったものであると推認することができる(<書証番号略>(病床日誌)中の医師小武家俊博作成の最終剖検報告書、証人横山隆)。
右最終剖検報告書には、直接死因としてエンドトキシンショックによる急性循環不全が重視されるとの見解の記載があるのに対し、一郎には、本件手術前から腎障害があり、死亡診断書(<書証番号略>)には、直接の死因は腎不全である旨の記載があるほか、治療経過においても、前認定のとおり腎不全の進行を食い止めることができずに死亡に至ったものであるが、腎不全の発生及び進行と、エンドトキシンショックによる急性循環不全が直接の死因となったとの右見解とは何ら矛盾するものではないと解される。
また、一郎には、高血圧症、糖尿病、腎障害及び軽度の肝障害があったものであるが、これらの基礎疾患の存在は、一郎がエンドトキシンショックを惹起し易い身体状態にあったことを推認させこそすれ、右認定の死亡に至る機序と矛盾するものではない。
2 そこで、一郎に発生した偽膜性腸炎の発生原因について検討する。
(一) 偽膜性腸炎とは、粘膜の表面に滲出物による偽膜が形成される腸炎であるが、主として抗菌薬の投与に起因するものとされ、細菌であるクロストリディウム・ディフィシルにより産生される毒素により発症することが多いとされている。その発生機序については、抗菌薬の投与により腸内の常在細菌が抑制され、当該抗菌薬に対して耐性を有するクロストリディウム・ディフィシルが増殖しやすい環境が作出されることにより、これが異常増殖し、その産生する毒素により腸炎が発症するとの説が有力である(<書証番号略>、証人横山)。
(二) 一郎に対しては、三月六日から同月一三日までの間は抗菌薬としてクラフォラン及びペントシリンが毎日定期投与され、同日から同月一七日までの間はビクシリン、モダシン及びミノマイシンが投与されているところ、セフェム系抗生物質製剤であるクラフォラン及びペニシリン系抗生物質製剤であるペントシリンは、いずれもその投与により偽膜性腸炎を引き起こす可能性のある薬剤であり、セフェム系抗生物質製剤であるモダシンやペニシリン系抗生物質製剤であるビクシリン、さらにはミノマイシンも同様である(<書証番号略>、証人横山)のに対し、一郎に発生した偽膜性腸炎の原因が右抗菌薬以外に存在する具体的徴表が窺われないことを、前記のクロストリディウム・ディフィシルを起炎菌とする偽膜性腸炎の発生機序についての有力説の考え方に照らして考慮すれば、一郎に発生した偽膜性腸炎は、抗菌薬の投与を原因とするものであると推認するのが合理的である(<書証番号略>及び証人横山も、このような見解を採るものであると解される。なお、一郎の偽膜性腸炎の発生原因となった抗菌薬の特定については後述する。)。
もっとも、一般的には、偽膜性腸炎の全てがクロストリディウム・ディフィシルを起炎菌とするものではなく、また、抗菌薬投与以外の原因による偽膜性腸炎(クロストリディウム・ディフィシルを起炎菌とするものを含む。)が少数例ながら医学界に報告されており、本件においても、一郎については、渡邊医師が偽膜性腸炎の発生を疑わなかったため、クロストリディウム・ディフィシルの存否を確認するための検査が行われておらず、その存在は確認されていない。しかしながら、前記のように、一郎に対して投与された抗菌薬以外に偽膜性腸炎を発生させ得る具体的原因は窺われず、また、偽膜性腸炎はクロストリディウム・ディフィシルを起炎菌とする場合が極めて多いことに照らせば、右事情は、前記認定を左右するものではない。
なお、グラム陽性桿菌であるクロストリディウム・ディフィシルの産生する毒素はエンテロトキシン及びサイトトキシンであるのに対し、一郎にショックを惹起した毒素であるとして前記最終剖検報告に記載されているエンドトキシンは、グラム陰性菌が産生するものである(<書証番号略>、証人横山)が、一郎のエンドトキシンショックは、クロストリディウム・ディフィシルにより発生した偽膜性腸炎により腸管の防御機能が障害され、腸管から血中にグラム陰性菌が侵入し、その産生するエンドトキシンにより惹起されたと考えることが可能であるから、右の産生毒素の相違は、前記認定を左右するものではない。
3 つぎに、一郎に発生した偽膜性腸炎の発生時期について検討する。
(一) 偽膜性腸炎の臨床症状及び検査所見
偽膜性腸炎の臨床症状としては、頻回の下痢、腹痛、発熱、腸管の麻痺による腹部膨満などが挙げられ、下痢は一日三〇回にも及ぶことがあり、また、粘液や血液が混入することがしばしばある。検査所見としては、白血球数の増加等の炎症反応所見、血清電解質失調(特に、カリウムの喪失による低カリウム血症)、低蛋白血症などがある(<書証番号略>)。
(二) 一郎の血液検査所見及び臨床症状についてみるに、三月一一日には、白血球数が四万二三〇〇と急激に増加し、CRP3.9、好中球割合九三パーセント、リンパ球割合六パーセントと、著しい炎症反応所見が認められ、この時点で、既に敗血症の症状を呈していたことに加え、臨床所見としては、同月一〇日に五回の下痢があり、止瀉剤としてロペミンが投与されたにもかかわらず、翌一一日にも、午前三時三〇分の多量の下痢を含む三回の下痢があったのであるが、これを、右(一)の偽膜性腸炎の臨床症状及び検査所見に照らし、また、前記1認定のとおりの偽膜性腸炎の発生から敗血症の惹起、ショック状態の出現という経過にも照らせば、一郎には、遅くとも三月一一日には偽膜性腸炎が発生していたと推認することができる。
4 偽膜性腸炎の発生原因となった抗菌薬について
翻って、偽膜性腸炎の発生原因となった抗菌薬の特定について検討するに、右3のとおり、一郎には遅くとも三月一一日には偽膜性腸炎が発生していたと推認されるところ、右時点までに投与されていた抗菌薬は、クラフォラン及びペントシリンであるから、これらのいずれか又は双方が偽膜性腸炎の発生原因となったと推認することができる。また、同月一三日から投与されたビクシリン、モダシン及びミノマイシンは、いずれも偽膜性腸炎の発生原因たりうる抗菌薬である(<書証番号略>、証人横山)から、これらの投与が、既に発生した偽膜性腸炎を増悪させた可能性も否定できないというべきである。
また、一郎に対し、三月一〇日から同月一三日までの毎日、止瀉剤としてロペミンが投与されているが、ロペミンは、腸管の蠕動を抑制する止瀉薬であり、クロストリディウム・ディフィシルによる偽膜性腸炎にあっては、毒素の排泄を遅延させる結果となるために、偽膜性腸炎の患者に対する投与は禁忌とされていること(<書証番号略>)に照らせば、腸蠕動を促進する作用を有するラックB(効果の点について、<書証番号略>)が併行投与されていたことを勘案しても、ロペミンの投与が一郎に発生した偽膜性腸炎を増悪させた可能性は否定できない。
5 以上に、前記一の事実経過を併せれば、一郎には、クラフォラン及びペントシリンのいずれか又は双方の投与を原因として三月一一日までには偽膜性腸炎が発生し、一郎は、これにより腸管の防御機能を障害され、グラム陰性菌が血中に侵入し、同月一三日にはその産生するエンドトキシンによる敗血症が惹起されてショック状態(エンドトキシンショック)に陥り、急性循環不全が引き起こされるという経過をたどって死亡に至ったことが推認されるというべきである。
二 一郎の担当医師が偽膜性腸炎の疑いを持たず、鑑別診断に必要な諸検査を実施しなかったため、偽膜性腸炎に対する適切な治療を行わなかった過失の有無(争点2)について
1 一郎の主治医であった西医師及びその治療に従事していた渡邊医師には、一郎の診療を担当していた医師として、一郎の臨床症状及び検査所見からみて、偽膜性腸炎の発生を疑うことが可能であった時点において、これを疑い、偽膜性腸炎に対する適切な治療を行うべき注意義務があったということができる。
2 そこで、まず、西医師又は渡邊医師が、一郎の治療過程において偽膜性腸炎の発生を疑うことが可能であったか否かについて検討する。
(一) 前記一の事実経過及び一郎の病床日誌(<書証番号略>)によれば、本件手術後の一郎の臨床症状及び検査所見の推移は、次のとおりである。
(1) 臨床症状
下痢については、三月八日に焦げ茶色の下痢があり、その後、同月一〇日には、午後零時三〇分に濃褐色泥状の排便が中等量あった後、午後九時、九時二〇分、一〇時及び一一時ころにそれぞれ下痢があり、翌一一日にも、午前三時三〇分ころに多量の下痢があった後、午後七時三〇分ころから八時ころにも二回の下痢があり、さらに、同月一二日は、午前一一時ころに二回、午後九時ころに一回の下痢があり、同月一三日には、午後二時及び午後八時ころにそれぞれ少量の下痢があった。
体温は、三月七日に39.5℃の発熱があった後は、単発的な発熱があった他にはさしたる発熱がないまま同月一一日に至ったが、同月一二日には午後一一時ころに38.5℃を上回る発熱があり、翌一三日も午前一〇時ころまでは三九℃台の発熱が続き、その後も午後二時ころまでは三八℃台の体温で推移した。
他方、腹痛の訴えがあったことは窺われず、三月一五日までは腹部膨満もみられていない。
(2) 検査所見
三月七日には白血球数一万五九〇〇、同月九日には白血球数一万五〇〇〇、CRP0.5未満であったが、同月一一日になって、白血球数四万二三〇〇、CRP3.9といずれも急激な上昇を示し、好中球割合九三パーセント、リンパ球割合六パーセントと核の左方移動が認められ、翌一二日にも白血球数四万八一〇〇、好中球割合95.3パーセントと高水準を維持した。その後、白血球数は、同月一三日に一万七九〇〇、三万五五〇〇及び一万八八〇〇に減少し、同月一四日には二万五一〇〇及び二万一二〇〇(CRP9.7、好中球割合九四パーセント)、同月一五日には一万八二〇〇及び一万四一〇〇、同月一六日には一万〇五〇〇、同月一七日には九三〇〇との推移を示した。
血清中のカリウム値は、三月一一日5.7、同月一二日5.7、同月一三日6.7及び6.2、同月一四日6.4、同月一五日7.5、同月一六日7.7、同月一七日7.7と推移した。
(二) 前記一3(一)の偽膜性腸炎に伴う臨床症状及び検査所見に照らして右(一)の臨床症状及び白血球数、CRP等の推移、とりわけ、三月一〇日には合計四回の下痢(午後零時三〇分ころの泥状排便を下痢とすれば五回)があり、翌一一日午前中にも三回の下痢が、さらに、同月一二日午前中にも二回の下痢がそれぞれあったこと、同日には白血球数及びCRPが急激な上昇を示し、核の左方移動が認められるなど顕著な炎症反応が認められたこと(同月一〇日には血液検査及び血清検査が施行されていないので、所見が得られていない。)をみれば、これらは偽膜性腸炎を示唆する兆候であるということができ、これに加えて、一郎に対して偽膜性腸炎の原因となる可能性のある抗菌薬が継続的に投与されていることや、一郎は前認定の基礎疾患があったことにより、偽膜性腸炎が発生し易い身体状態にあったこと(<書証番号略>)、さらには、偽膜性腸炎は高齢者に発生し易いとされており、一郎は当時六四歳と比較的高齢であったことを考慮すれば、渡邊医師及び西医師は、三月一一日から翌一二日午前中までには、一郎に偽膜性腸炎が発生しているとの疑いを抱くことが可能であったと認めるのが相当である。
(三) 右の点について、一郎の下痢の回数は、一日三〇回というような頻繁なものではなく、特に三月一〇日の下痢は、腐敗性のものである可能性や座薬であるインダシンを肛門に挿入したためである可能性もあったこと、また、三月一一日の時点ではさしたる発熱はなかったこと、血清中のカリウム値は、偽膜性腸炎が発症した場合には低下するはずである(<書証番号略>、証人横山)のに、一郎においては逆に正常範囲を上回っていたこと、さらには、抗菌薬に起因する偽膜性腸炎の発生自体が稀であることは、いずれも一郎に偽膜性腸炎が発生していたことを疑いにくくする事情である。しかしながら、下痢の回数の点については、三月一〇日から止瀉剤として強力な効果を有するロペミン(効果の点について、<書証番号略>)が投与されており、その効果により下痢の回数が抑えられていた可能性も否定できず、担当医師としては、止瀉剤の投与の効果を考慮して下痢の症状を監察すべきであったといい得るものであり、また、一般的に、医師には、さまざまな疾病の発生の可能性を考慮して治療に従事すべき医療専門家としての高度の注意義務があるのであって、右のような注意義務の下においては、前記(二)のような下痢の状況や白血球数等の炎症反応所見の推移は、かなり強く偽膜性腸炎の発生を疑わせるものであると評するのが相当であり(一郎の病床日誌(<書証番号略>)には、渡邊医師又は西医師が「三月一三日下痢発現」との記載をしており、実際にも下痢の発現が注目されていたことが窺われる。)、したがって、前記の諸事情は、なお前記(二)の判断を覆すに足りないというべきである。
3 つぎに、右2のとおり、渡邊医師又は西医師が一郎に偽膜性腸炎が発生していることを疑い得た時点である三月一一日から翌一二日午前中までにおいて、偽膜性腸炎を治療により軽快させ、一郎がショック状態に陥ることを回避することが可能であったかについて検討する。
(一) クロストリディウム・ディフィシルを起炎菌とする偽膜性腸炎に対する治療は、その原因となった抗菌薬の投与を中止することが第一であるが、重症の場合にはクロストリディウム・ディフィシルに対する強い抗菌力を有する抗菌薬であるバンコマイシンの投与が有効な治療法であり、基礎疾患のため抗菌薬の投与を中止することができない場合には、バンコマイシンを並行して投与することとなる(<書証番号略>)。
(二) 一郎は、三月一三日にはショック状態に陥っており、この段階に至っては、偽膜性腸炎に対する治療を行っても、一郎の全身状態の改善にはほとんど効果がなかったと考えられる。しかし、同月一一日から翌一二日午前中の時点では、一郎の症状からみて、クラフォラン及びペントシリンの投与を中止することはできなかったと認められるものの、バンコマイシンをこれらと並行して投与し、併せてロペミンの投与を中止すれば、偽膜性腸炎を軽快させることが可能であり、一郎がエンドトキシンによるショック状態に陥ることを未然に回避できた蓋然性が高いと認められる。
4 以上によれば、渡邊医師及び西医師は、三月一一日から翌一二日午前中までに、一郎に偽膜性腸炎が発生していることを疑うことが可能であったのであり、かつ、右の時点において、抗菌薬としてバンコマイシンの投与を開始し、ロペミンの投与を中止すれば、右偽膜性腸炎を軽快させることが可能であって、一郎がショック状態に陥ることを回避できた蓋然性が高かったのであるから、右両医師には、右時点において、偽膜性腸炎の発生を疑い、これに対する治療としてバンコマイシンの投与を開始し、ロペミンの投与を中止すべき注意義務があったというべきである。しかるに、右両医師は、右注意義務があるにもかかわらず、偽膜性腸炎の発生を疑わず、そのためにバンコマイシンの投与をせず、かつ、ロペミンの投与を継続した過失があるというべきであり、また、右過失と一郎の死亡との間には因果関係があると認められる。
5 なお、一般に、偽膜性腸炎の確定診断のためには、大腸内視鏡検査により偽膜の存在を確認し、患者の便の嫌気培養やクロストリディウム・ディフィシルの産生する毒素の検出を行うことにより、クロストリディウム・ディフィシルの存在を確認する必要がある(<書証番号略>、証人横山、証人渡邊)ところ、一郎には不穏状態があったため、大腸内視鏡検査には危険が伴う状況であり、また、被告病院には便の嫌気培養やクロストリディウム・ディフィシルの産生する毒素の検出(ラテックス凝集反応を利用する試薬を使用する方法や毒素に対する抗原抗体反応を利用する方法がある。)を行う態勢が備えられていなかったことが窺われる(<書証番号略>、証人横山)。しかしながら、偽膜性腸炎の発生が疑われた段階で、その確定診断を経なくてもバンコマイシンの投与等の前記のような治療措置を執ることには特段の障害はないのであって、偽膜性腸炎の進行が致命的な結果を惹起する可能性があることに鑑みれば、医師としては、偽膜性腸炎の発生が疑われる以上、右のような治療措置を執るべきものであるということができるから、右の点は、前記判断を左右するものではない。
6 また、原告らに対し、医薬品基金から、医薬品基金法に基づく給付がなされていること(前記第二の二4)に関し、被告は、次のとおり主張する。すなわち、同法にいう医薬品の副作用とは、医薬品が適正な使用目的に従い、適正に使用された場合においてもその医薬品により人に発現する有害な反応をいうと定義されており(同法二条二項)、投薬により有害な反応が発現した場合においても、投薬に当たって医療過誤があるときには、医薬品の不適正な使用がなされたことになり、同法にいう医薬品の副作用に該当しないと解されるのであるから、一郎の死亡に関して原告らに対する給付の決定がなされたことは、投薬に当たって過誤がなかったと医療専門家が判断した(給付の決定については、医薬品基金は、給付請求のあった者に係る疾病、障害又は死亡が、医薬品の副作用によるものであるかどうか等の事項について、厚生大臣に判定を申し出るものとされ、厚生大臣は、右申出があったときは、中央薬事審議会の意見を聴いて判定を行い、同基金に対し、その結果を通知するものとされている(同法二九条)。)ことを意味し、したがって、被告病院において、抗菌薬の投与について過誤はなかったというのである。
なるほど、医薬品基金法によれば、被告主張のとおり、投薬に関する過誤があった場合には、医薬品基金法に基づく給付はなされない建前となっており、一郎についても、給付決定の過程において、抗菌薬の投与について過誤がなかったことが一応是認されたことが推認されるものではあるが、右過程における検討の具体的内容、特に、本件において原告らが主張するような過失の有無についていかなる検討が加えられたかは明らかでなく、一郎について同法に基づく給付決定がなされたとの一事をもってしては、前記判断を覆すに足りないというべきである。
7 よって、渡邊医師及び西医師のその余の過失について判断するまでもなく、被告には、渡邊医師及び西医師の使用者として、民法七一五条に基づき、一郎の死亡により原告らに生じた損害を賠償する責任があるというべきである。
三 損害(争点3)について
1 一郎の逸失利益
認定額五八〇万九三〇〇円
一郎(大正一五年八月二八日生)は、死亡当時六四歳であったが、もと勤務していた会社からは既に退職し、自家用の農作物を栽培するなどして生活していたものであること(原告甲野太郎本人)に、前認定のとおり高血圧症等の疾患を有しており、小脳内出血の発生により本件手術を受けたことを併せて考慮すれば、一郎は、死亡時から七年間稼働可能であり、その間、平成三年賃金センサス第一巻第一表(産業計・企業規模計・学歴計)の六〇歳から六四歳の男子労働者の平均年間給与額である四〇一万五九〇〇円の五〇パーセントの年収を得ることが可能であったと認めるのが相当である。そして、一郎については、生活費は年収の五〇パーセントとみるのが相当であるから、右収入から右の割合により生活費を控除した上、その七年間分の金額からライプニッツ係数を用いて年五分の割合による中間利息を控除した(七年間に対応する同係数は5.7863である。)金額である五八〇万九三〇〇円(一円未満の端数は切り捨てる。)をもって、一郎の逸失利益と認めるのが相当である(計算式は次のとおり。)。
4,015,900円×0.5×(1−0.5)×5.7863=5,809,300円
2 慰謝料
認定額二〇〇〇万円(原告ら各一〇〇〇万円ずつ)
原告らが、父である一郎が死亡したことにより被った精神的苦痛に対する慰謝料としては、原告らそれぞれについて各一〇〇〇万円ずつの合計二〇〇〇万円であると認めるのが相当である。
3 墳墓・葬祭費用
認定額一〇〇円(原告ら各五〇万円ずつ)
原告らは、一郎の墳墓及び葬祭費用として、一〇〇万円を下回らない金額を半額ずつ支出したことが認められる(甲二三の1ないし5、二四、弁論の全趣旨)ところ、各五〇万円ずつの支出をもって、渡邊医師及び西医師の前記過失と相当因果関係を有する損害であると認める。
4 弁護士費用
認定額三〇〇万円(原告ら各一五〇万円ずつ)
本件の事案の性質等を考慮し、弁護士費用相当の損害として、原告ら各自についてそれぞれ一五〇万円ずつの合計三〇〇万円をもって、渡邊医師及び西医師の前記過失と相当因果関係を有する損害であると認める。
5 以上によれば、被告が賠償すべき損害額は、原告ら各自について、それぞれ一四九〇万四六五〇円である(前記1の各原告の相続分二分の一に相当する二九〇万四六五〇円と前記2ないし4の各原告分の合計)ところ、原告らは、一郎の死亡に関し、医薬品基金からの給付を三一三万四〇〇〇円ずつ取得しており、右損害額からこれを控除するのが相当であるから、被告が原告ら各自に対して賠償すべき損害額は一一七七万〇六五〇円ずつである。
第四 結語
以上によれば、被告は、原告ら各自に対し、不法行為に基づく損害賠償(民法七一五条)として、それぞれ一一七七万〇六五〇円及びこれに対する一郎の死亡の日である平成三年三月一八日から各支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金を支払う義務を負うというべきであり、原告らの右各請求は、右の限度で理由がある。
よって、主文のとおり判決する。
(裁判官白井幸夫)